ラフマニノフはチェロ・ソナタを1曲だけ書いていて、特別にポピュラーな存在とは言えませんが、世界的には1930年代から過去50回以上もレコーディングされており、チェリストたちの主要レパートリーの一曲です。
曲の知名度がそれほどでないのは、やはりラフマニノフ=ピアノのイメージが強いからかもしれません。けれどもこの人は、交響曲や合唱曲に素晴らしい作品を残していますし、ピアノのイメージが余りに強過ぎるのも考えものです。
このチェロ・ソナタにしても、聴き込めば紛れもなくラフマニノフのあの深い憂愁とロマンティシズムに溢れた名作なのです。
曲は全四楽章構成であり、スケールの大きさを感じさせます。緩徐楽章の前にスケルツォ楽章が加えられています。
第1楽章の序奏がレントでため息のように始まると、憂鬱な気分をずっと保ち続けて吹っ切れない印象が続きます(ラフマニノフ!)。続くアレグロモデラートに移ると、ピアノ伴奏に乗ったチェロが気品のある第1主題を美しく歌います。その後、チェロとピアノが交互にロマンティックで憂鬱な旋律を歌います。展開部に入ると流石にラフマニノフで、ピアノがまるでコンチェルトのように弾き出しますので、チェロも主役を奪われないように必死となります。以降、両者の熱い掛け合いがずっと続くので実に聴き応えが有ります。
第2楽章はスケルツォ楽章です。冒頭は第1楽章の熱気をそのまま引き継いでいますが、リズムが不安定な精神状態である印象を与えるユニークな曲想です。中間部では一転してチェロが美しくロマンティックな旋律を息長く歌います。
第3楽章はアンダンテの緩徐楽章です。静かで内向的な雰囲気に支配されていることから幾らか地味に感じられますが、チェロがゆったりと歌う旋律はやはり美しいです。
第4楽章では、ようやく憂鬱さから解放された輝かしい雰囲気に変わります。特に第二主題の伸びやかで明るい旋律は非常に印象的で、ラフマニノフ=不健康の方程式を打ち砕いてしまうような効果を持ちます。
全体を聴き終えると、非常にパースペクティヴの良さを感じますし、何よりもラフマニノフの美しい旋律がチェロの深い音色で歌われて聴きどころ満載です。しかもそれに劣らず裏に表にと活躍するピアノの魅力は流石にラフマニノフです。もっとも、この曲の演奏バランスを保つには、チェリストの実力が不可欠となるでしょう。
さて、50種類の録音を集めるのは到底無理な話ですが、僕が集めてみたCDをここにご紹介したいと思います。
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)、アレクサンダー・デデューヒン(Pf)(1956年録音/グラモフォン盤) 当時まだ30代半ばのロストロポーヴィチが、数多く共演をしたデデューヒンと残した演奏です。最近の録音には到底敵いませんが、モノラルとしては優れた音質です。演奏には奇をてらったところが無く、演出めいた過剰な表現も有りません。テンポも中庸で、特に挑戦的でも刺激的でもありません。特にピアノにはおおらかさを感じます。しかし、それでいてこの演奏には骨太さやロシアの味わいが感じられます。やはり二人ともロシアで生まれ育ったことが大きいと思います。名チェリストの記録として価値を感じます。
リン・ハレル(Vc)、ウラディーミル・アシュケナージ(Pf)(1984年録音/DECCA盤) アシュケナージはロシア人にしては余り土臭さを感じさせないのが個人的には物足りませんが、ピアノの音の美しさが素晴らしく印象的です。ハレルのチェロもとても上手く、自由自在に弾き切っています。大胆かつ丁寧さを感じて素晴らしいです。あらゆる意味でリファレンス的な演奏だと思いますが、その分、強烈な個性は有りません。この演奏に濃厚なロシアンロマンティシズムを求めようとすると無理が有ると思います。このCDにはソナタ以外のラフマニノフのチェロ曲が収められていてやはり同傾向の演奏です。
ヨーヨー・マ(Vc)、エマニュエル・アックス(Pf)(1990年録音/SONY盤) 流石はヨーヨー・マで、驚くほど良く歌います。表情も極めて豊かで、一音一句にニュアンスが付けられているのに感心します。と書けば、いつものヨーヨー・マですが、実はこの人は僕はやや苦手です。余りに表情が豊か過ぎるのに逆に煩わしさを感じてしまうからです。ポルタメントが不要と思われる箇所でも多用するのも気になります。要するに好みの問題ですね。けれども、これだけ表現力の有るチェロが人気が高いのは全く不思議では有りません。終楽章でも朗々と歌い、スケールの大きさが凄いです。アックスのピアノは音は美しく、洒落っ気こそ有りませんが非常に立派な演奏です。
ミッシャ・マイスキー(Vc)、セルジオ・ティエンポ(Pf)(2005年録音/グラモフォン盤) ルガーノでのライブ録音とのことですが、完成度は高く、実演ならではの緊迫感が凄いです。マイスキーも表情がとても豊かですが、演奏に一気呵成の勢いが有るのでヨーヨー・マのような勿体ぶった感じはしません。むしろラフマニノフの心情がよほど良く表れているように思います。チェロの音色は非常に美しいですし、高音の艶やかさにも惚れ惚れします。ベネズエラ出身のティエンポはこのとき33歳ですが、マイスキーとピタリと息の合ったピアノが素晴らしいです。音も美しいです。ソナタ以外には珍しい小品をチェロで演奏していますが、いずれもライブ録音です。
アレクサンダー・クニャーゼフ(Vc)、ニコライ・ルガンスキー(Pf)(2006年録音/ワーナー盤) 音楽がその演奏家の生きざまを表す好例ではないかと思います。クニャーゼフは17歳でチャイコフスキーコンクールに入賞しながらも、筋力が衰える奇病にかかり数年間の闘病後、のちに妻となるピアニストの献身的な協力を得て見事に再起します。ところが交通事故でその妻を亡くし、自身も重傷を負ってしまいます。そこから再び不死鳥のように立ち上がった後のこの演奏からは、人の生きる悲哀を強く感じずにいられません。演出や誇張というものが感じられず、クニャーゼフというチェリストの沈み込む心のつぶやきを聞いているような気にさせられます。チェロの音色も暗く地味な印象を受けます。ルガンスキーのピアノは共感を持って素晴らしい伴奏ぶりです。この演奏は非常に個性的ですがとても強く惹かれます。唯一の難点は録音に息づかいが大きく入っていて少々気に成ることです。
伊藤悠貴(Vc)、ソフィア・グルャク(Pf)(2011年録音/チャンプス・ヒル盤) イギリスで最も権威のあるウインザー祝祭国際弦楽コンクール優勝の賞として録音を行ったのが、ラフマニノフのチェロのための作品集です。この曲もその中に収められています。弱冠21歳での録音ですが、スケールの大きい演奏からはとても年齢は想像できません。正攻法で奇をてらったところが無く、曲の良さがそのまま伝わって来ます。チェロの音は伸びやかですが、しっとりとしてラフマニノフの音楽にぴったりです。特に気に入ったのは終楽章の第二主題でゆったりと大きな広がりを持って歌うところです。名だたる百戦錬磨の巨匠たち以上とまでは言いませんが、こうして肩を並べて聴き比べが出来るというのは凄いことです。英国の権威ある音楽雑誌ストラッド誌で特選盤に選ばれるだけのことはあります。彼は昨年あたりから国内での活動を本格的に始めて生演奏に触れられる機会が増えましたので、CDとの聴き比べも楽しいと思います。
以上の中で、特に気に入っているのは、いかにもライブ録音の感興の沸き立つマイスキー/ティエンポ盤と、ラフマニノフの不健康さが一番強く出たクニャーゼフ/ルガンスキー盤、それにスケール大きく自然な表現の伊藤悠貴/グルャク盤の3つです。これはあくまでも自分の好みということで。
伊藤さんが最も尊敬しているというデヴィッド・ゲリンガスのCDも聴いてみたいのですが未聴です。