リヒャルト・シュトラウスが作曲した「アルプス交響曲」(Eine Alpensinfonie)は、作曲者自身が14歳(15歳との説もあり)の時に、アルプスのツークシュピッツェ山に向けて登山をしたときの体験が作曲の元となったとされます。ちなみにバイエルン州とオーストリアの間にあるこの山は高さ2,962mでドイツの最高峰です。
ところが、ツークシュピッツェ登山の話というのは疑義が有り、実際に登ったのはハイムガルテン山(高さ1790m)だったようです。というのもリヒャルト少年の登山の証拠は友人宛の手紙なのですが、肝心な山の名前は記されていません。手紙には「夜中の2時に出発して・・・5時間歩いて頂上に着いた・・・そこからの眺めは素晴らしく、シュタッフェル湖、リーク湖、アンマー湖、ヴュルム湖、コッヘル湖、ヴァルヒェン湖、・・・ツークシュピッツェを見渡せた・・・」と書かれていることから、これらの湖や山を眺められ、少年でも登れる山ということから、ハイキング登山で人気のハイムガルテン山と推定されるようです。
それはさておき、この作品にはアルプス登山の一日が夜明け前から始まり、再び夜が訪れるまでを時間の経過とともに、様々なシーンが描かれています。つまり「登山の疑似体験」でしょうか。しかし、美しい景色と爽やかな空気に包まれるのは良いとしても、アルプスを一日で登頂して下山するというのは、まるで富士山の弾丸登山のようで無謀、危険ですね?? 案の定、道に迷ったり嵐や雷雨に合ったりします。実はリヒャルト少年も実際にそんな目に合ったのだそうです。
リヒャルト少年は登山の翌日にこの体験をピアノで音として再現しました。それから20年後に「アンチクリスト、アルプス交響曲」とタイトルを付けて4楽章の交響曲としてスケッチしましたが、結局は1911年に現在の形として完成させました。
作品は下記の通り全部で22の部分から構成され、各部が切れ目なく演奏される単一楽章の交響曲です。しかし形式的な意味での「交響曲」からは遠くかけ離れているので、これは「交響詩」あるいは一般の管弦楽曲に分類されるべきだと思います。
1.夜: 不協和音の夜の動機により開始され、金管楽器により山の動機が静かに登場する。
2.日の出: 太陽の動機が強奏され、調を変えながら受け継がれる。
3.登山: チェロ・コントラバスによる山登りの動機、岩壁の動機が現れ、舞台裏のバンダによりファンファーレが奏される。
4.森へ入る: トロンボーンとホルンによる旋律に山の動機が絡む。
5.小川に沿って歩む: 小川のせせらぎの音が聞こえ、山の動機が重ねられる。
6.滝: 岩壁の動機に、滝の流れが重ねられる。
7.幻影: 水の中に幻影が現われる。最後にホルンの旋律。
8.花咲く草原: 山登りの動機が静かに聞こえ、やがて明るくなる。
9.山の牧歌: カウベルが鳴る中、牛の鳴き声やアルペンホルンの音が聞こえる。
10.林で道に迷う: 山登りの動機と岩壁の動機、迷路の動機。そして山の動機が現れる。
11.氷河へ: 明るくなり、山登りの動機が現れる。
12.危険な瞬間: 遠くから雷鳴が聞こえてくる。
13.頂上にて: トロンボーンによる頂上の動機。幻影のホルンの旋律が再び聞こえる。山の動機と太陽の動機。
14.景観: 頂上の動機が現れ、太陽の動機が再び登場する。
15.霧が立ちのぼる: 不安げな旋律となる。
16.陽がかげり始める: 太陽の動機が短調で登場し、陽がかげってきていることを表す。
17.悲歌: 弦楽器による登山者の悲しげな歌。
18.嵐の前の静けさ: 遠くから雷が聞こえ、だんだんと暗くなる。雨が降り始め、次第に激しくなり、風が吹き出す。
19.雷雨と嵐、下山: オルガンの和音とウィンドマシーンにより「吹けよ風、呼べよ嵐」とばかりに嵐の中を登山者は下山する。稲妻が光り、落雷が轟くが、だんだんと静まる。
20.日没: 太陽の動機が展開されて日没となる。登山者は哀歌を口ずさむ。
21.エピローグ: オルガンによる太陽の動機。山登りの動機が回想的に現れ、辺りが暗くなってゆく。
22.夜: 夜の動機が再び現れ、山の動機とともに静かに一日が終わる。
最後まで聴き終えてみると、『これが果たして登山の一日を表現しただけなのだろうか?』 という疑問が湧いてきます。シュトラウスが作品を完成させたのは51歳の時で、それからまだ30年以上を生きますが、管弦楽曲としてはこれが最後の作品と成ります。つまりこの『夜明けから再び夜の闇に包まれるまでの波乱万丈に富んだ一日』とは、もしや人間の一生の象徴としたかったのではないか?ふと、そんな風にも思えました。
“人生波乱万丈。それは弾丸登山のごとし”(ハルくん)
それはともかく、この作品は何しろ幾つもの特殊楽器やステージ裏などで沢山の楽器が用いられます。ワーグナー・チューバなどはまだ序の口で、ウィンドマシーン(風の音を起こす装置)、シュトラウスが特注したサンダーマシーン(雷の音を起こす装置)、カウベル(牧羊ベルの音)、さらにバンダ(舞台裏の楽隊)にもホルン12本、トランペット2本、トロンボーン2本と、「なんだこりゃ!」状態です。
おかげで奏者は150名ほど必要となります。え、千人の交響曲よりはマシ?合唱を加えなかったのは救いでしたね。
作品の初演は1915年にベルリンのフィルハーモニー楽堂でリヒャルト・シュトラウスの指揮するシュターツカペレ・ドレスデンにより行われました。
CDはどれもこれも聴いているわけではありませんが、愛聴しているCDをご紹介します。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル(1952年録音/Altus盤)
Rシュトラウスの管弦楽曲をモノラル録音で聴くことは余りありませんが、クレメンス・クラウスやクナは例外です。これはウィーン楽友協会におけるライヴです。全体のテンポは特に遅くは無く、むしろ速めでアルプスの山道をヒョイヒョイと駆け上るようです。当時のウィーン・フィルの音は本当に柔らかくて魅力的ですが、録音のハンディは如何ともしがたいです。ただ「雷雨と嵐」など、物理的な音響を越えて怖いぐらいの嵐の情景が目に浮かぶのは凄いです。録音はロートヴァイスロート放送によりますが、この当時のライヴ録音としては優れています。
カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1957年録音/グラモフォン盤)
モノラル録音なのは残念ですが、各楽器の音は明瞭で充分鑑賞に耐えられます。それに何と言っても初演を行ったSKドレスデンです。壮年期のベームらしいがっちりと引き締まった造形感を打ち出しながら、速めのテンポでズンズンと進みます。最近の演奏の様にトゥッティにおける金管のハーモニーが完璧に溶け合った美しさを誇るわけでは無いですが、「嵐」など要所での力感は素晴らしいです。これでステレオ録音ならと思ってしまうのが。。。いや、それを言うのはやめましょう。
ルドルフ・ケンペ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1971年録音/EMI盤)
サヴァリッシュのシューマンなんかもそうなのですが、この当時のSKドレスデンをLP盤で聴くと国内盤でも充分に素晴らしい音でした。しかしCD化された音は幾らマスタリングが駆使されてもアナログの良さは再現出来ません。しかしそれで価値が無くなるわけでは無く、デジタル再生でも演奏の素晴らしさは味わえます。ウィーン・フィルの流麗な音とは違ったSKドレスデンのやや明るめで古雅な美音はやはり大きな魅力です。ケンペの指揮は壮大さも充分ですが、各場面の語り口は実に上手いものです。ワーナーから再発された全集盤の音が評判良いですが、以前のX’mas BOXとの大きな差は無いように思います。
ゲオルグ・ショルティ指揮バイエルン放送響(1979年録音/DECCA盤) このディスクは所有していたのを忘れていましたが、オーケストラにシカゴ響を起用しなかったのは賢明です。ウイーンPOならベストですが、バイエルンでも良しです。ところがオーケストラを力づくで引き摺り回し、トウッティを目いっぱい鳴らし切るあたりはショルティの本領発揮かもしれませんが、それがこの曲の広々とした自然さとはどうも異質に感じられます。「登山」も自分が聴いた中では最速で平地を駆けるようです。「嵐」の迫力も大したものですが、全体的に心の休まる暇が有りません。従って余りお薦めは出来ません。
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル(1980年録音/グラモフォン盤)
カラヤンのこの曲の一度切りの録音で、それは結構珍しいことなので、この演奏に満足し切れたということを意味するのでしょうか?確かに“音の洪水“と呼べる演奏で、アルプスの氷河が全部溶けて濁流となったような印象です。もっともそこから感動が生まれるかと言えば首をひねります。ベルリン・フィルの機能は優秀で、物理的な音響としては圧倒的迫力ですが、美感を損ねるまでの金管の強奏などはむしろ騒々しく感じられるほどです。心が自然と高まるような愉悦感がどうも得られ難いです。「それは、お前がアンチ・カラヤンで偏見があるからだろう」と言われそうですし、実際にその通りかもしれません。最新録音では有りませんが音は優れます。
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィル(1989年録音/TELARC盤)
プレヴィンのRシュトラウスは「英雄の生涯」も「ツァラトゥストラ」も良い演奏でしたが、この「アルプス交響曲」も素晴らしいです。いかにもプレヴィンらしく、ことさらに力むことも無く、流れるような自然体でありながら、名作映画を観ているかのように惹き込まれてしまいます。もちろんウィーン・フィルの音の美しさは特筆ものですが、ここぞという場面での迫力にも不足は有りません。アルプスの山々の威容も充分に感じさせてくれます。更には内面的な哲学までも感じさせるような気がします。テラークによる優秀録音はその感動に一役買っています。
朝比奈隆指揮北ドイツ放送響(1990年録音/ODE Classics盤)
朝比奈は、この曲を好んだようで三種類の録音が有ります。これはそのうちのドイツの名オーケストラとの録音なので、ライヴにもかかわらず、演奏の完成度が極めて高く、安心して聴いていられます。雄大なスケールと力感を醸し出しながらもフォルテで少しもうるささを感じさせないのは、この楽団と多くの録音を残したヴァントのブルックナーと共通しています。ウィーン・フィルの音のような艶やかさは無いとしても、自然で美しい音色が魅力的です。それはチロル・アルペンではなくドイツ・アルペンという印象ですが、音楽の気宇の大きさにおいては随一の演奏だと思います。録音も明瞭で優れます。
クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィル(2000年録音/グラモフォン盤)
ドイツ音楽をドイツ音楽らしく演奏する指揮者が絶滅危惧種となった現代、それを一身に背負った感の有るティーレマンですが、ワーグナー、ブルックナーと並んで素晴らしいのがリヒャルト・シュトラウスです。スケールの大きさもさることながら、ウィーン・フィルの美しい音をいじらしいほどにデリケートに奏でてくれていますが、強奏部分でも美しさが失われず、これ以上何を求めるのかという気に成ります。余りに美しいので、アルプスの山々というよりも「ばらの騎士」を聴いているような錯覚に陥ります。そう、もはや自然界の情景では無く、夢の世界と言えるでしょう。ライヴ収録ですが演奏は完璧です。録音の質、楽器バランスも極上です。
ファビオ・ルイージ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(2007年録音/SONY盤)
ルイージとドレスデンのRシュトラウスは2009年の来日で「英雄の生涯」をサントリーホールで聴きましたが、圧倒的な演奏でした。この「アルプス」は、その2年前に音楽監督となった年にドレスデンのルカ教会で録音されました。初演を行った楽団の演奏と言えば、1971年のケンペ盤と比較されるでしょう。しかしほぼ最新録音で音響的にこれだけ差が有っては初めから勝負は付いたも同然です。ルイージは幾らか速めにサクサクと小気味よく進めますが拙速な感じはしません。それよりもあの厚く雅やかなドレスデン・サウンドが一杯に鳴り渡るのが最高です。ホルンの魅力はウィーン・フィルのそれに並びますし、強奏でも全体のハーモニーが濁らないのも同様です。
ということで、どれも魅力的な演奏ですが、“チロル・アルペン“としてはウィーン・フィルの持つ音の魅力は何物にも代えがたく、一つだけならティーレマン盤、次いではプレヴィン盤を選びます。一方”ドイツ・アルペン”としてはルイージ盤、それと朝比奈盤を選びたいです。
<補足>
リヒャルト・シュトラウスが登ったとされる山名についての記述を修正しました。
ベーム/SKドレスデン盤、ショルティ/バイエルンRSO盤を追記しました。