マーラーの歌曲集「亡き子をしのぶ歌」は、原題が「Kindertotenlieder」ですので直訳すれば「子供の死の歌」となります。正否論を語るほどのことでは有りませんが、印象として前者は”母親”の歌、後者はどちらかいうと”父親”の歌という気がするのは私だけでしょうか。
この曲集はドイツの詩人フリードリヒ・リュッケルトの詩が使われていますが、リュッケルトは二人の息子を失った悲しみを実に428篇もの詩に詠いあげました。その息子の一人の名前はエルンストで、それは13歳で病死したマーラーのすぐ下の弟と同じ名前でした。ですのでマーラーは亡き弟を偲んでこの歌曲集を書いたという説が有ります。
この歌曲集を書き上げた1904年という年は、第5交響曲の初演、第6交響曲の完成、第7交響曲の作曲開始と極めて充実した時期に当たります。このような輝かしい時期に詩人の実体験に基づく曲に夫が取り組むことに妻のアルマは不安を抱き、途中で創作を思い止まらせようとしたそうです。けれどもマーラーはそれを聞き容れずに作品を完成させます。そして翌年の1905年に初演されますが、その僅か2年後に長女のマリア・アンナをジフテリアと猩紅熱で失くしてしまいます。これもマーラーの生涯の悲劇としてよく知られた話です。
そんな背景から生まれたこの歌曲集は本当に素晴らしいです。実際に我が子を失った親にとっては余りにも哀し過ぎて、聴くのが躊躇われるほど辛過ぎるとは思いますが、マーラー特有の旋律の魅力と美しさは繰り返して聴けば聴くほどに心に深く感じられてゆきます。
曲は5篇の詩から成ります。(各曲の要旨)
第1曲 いまや太陽は明るく昇る
今や太陽は明るく昇る、夜中に何の不幸も無かったかのように。
不幸が起こったのは私だけだ、太陽は皆を明るく照らしている。
第2曲 いまや私にはよく判る
いまや私にはよく判る、なぜあんなに暗い炎をその目に輝かせていたのかが。
だが私には判らなかったのだ。あの光で私に告げようとしていたのだね。 『私たちをよく見ててね。だってすぐに遠くに行っちゃうんだから』と。
第3曲 おまえの母さんが部屋に入ってくるとき
おまえのお母さんが部屋に入ってくるとき、私にはいつものようにお前がその後にくっついてちょこちょこと入ってくるように思われるのだ。昔のように!
第4曲 よく私は考える、子供たちは外へ出かけただけなのだ
よく私は考える、子供たちは外へ出かけただけなのだ!
すぐにまた家に帰ってくるだろう!天気は良いし心配は無い。あの子たちはちょっと寄り道しているだけなのだ。
第5曲 こんな天気、こんな嵐の日には
こんな天気、こんな嵐の日には決して子供たちを外へ出したりはしなかった。
それなのにあの子たちは運び出されてしまった。それに対して私は何も言えないのだ。
さて、この曲は音域からアルト(もしくはメゾ・ソプラノ)かバリトンで歌われます。指定は有りません。
詩の内容については第3曲目が完全に父親の詩で、残りの4曲はどちらとも言えません。
しかしこの曲が一般的に女性歌手により歌われることが多いのは、子供を失う悲しみ=母親、女性という印象を与えるからかもしれません。曲想からしてもどう聞いても女声がふさわしく感じられます。
音楽的にはどの曲も魅力的で甲乙つけ難いですが、個人的には第1曲と第4曲のマーラーならではの個性的な旋律に強く惹かれます。第5曲の嵐のように迫りくる緊迫感もとても魅力です。
それでは愛聴盤のご紹介です。
キャスリーン・フェリア―(A)、ブルーノ・ワルター指揮ウイーン・フィル(1949年録音/EMI盤) フェリア―がまだ20代で国際的には無名の頃にワルターがその才能を見出してマーラーの音楽をレッスンしただけあり、本当に素晴らしい歌唱です。一つ一つの言葉やフレーズに込められた情感とニュアンスの深さは比類が在りません。また、今では失われてしまった当時のウイーン・フィルのほの暗く情緒的な音色は比類ない魅力が有ります。録音も優れていて古い割には鑑賞上全く気になりません。このような演奏こそが正に「不滅の名盤」の名に値するのでしょう。
D.フィッシャー=ディースカウ(Br)、カール・ベーム指揮ベルリン・フィル(1963年録音/グラモフォン盤) ベームのマーラーの印象はかなり薄く、事実シンフォニーは聴いたことが有りません。ただ歌曲は「さすらう若人の歌」やこの「亡き子を偲ぶ歌」を演奏しています。決して情緒に溺れはしませんが、彫が深く行き応えが有ります。特に第5曲の音の迫力と雄弁な金管楽器の扱いは圧巻です。当時のベルリン・フィルの暗めの音色にも惹かれます。問題はむしろFディースカウで、非常に上手い歌唱なのですが、例によって演出臭さが拭えず、どうも知性が感情に勝ってしまうのが玉に瑕です。
クリスタ・ルートヴィヒ(Ms)、カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1972年録音/オルフェオ盤) 数少ないベームのマーラーでザルツブルク音楽祭のライブです。独唱をマーラーを得意とするルートヴィヒが歌います。オケはSKドレスデンですしベームなのでやはり情緒面々と歌いあげるようなスタイルではありません。しかし非常に表情豊かに歌い上げるルートヴィヒに引っ張られてか、演奏全体の印象は極めて人間的で感情のひだがひしひしと感じられる結果となっています。当たり前のことなのですが、これはやはり『歌曲』なのですね。第4曲など悲しみが本当に心に迫ります。
ブリギッテ・ファスベンダー(Ms)、クラウス・テンシュテット指揮北ドイツ放送響(1980年録音/Profil盤) マーラーの交響曲第5番に付属の二枚目のディスクにこの曲だけ収められた贅沢な扱いです。テンシュテットらしい遅いテンポにより情緒面々と沈滞するような演奏で、やはりこの曲は「こうでなくては!」と感じさせます。どの曲でも魅力的ですが、特に第4、5曲が優れていてます。後者のオーケストラの音の彫りの深さはどうでしょう。表情豊かなファスベンダーの歌唱も非常に優れています。
アグネス・バルツァ(Ms)、ロリン・マゼール指揮ウイーン・フィル(1985年録音/CBS SONY盤) 総じてマゼールのマーラーはテンポが遅めですが、この歌曲も例外ではありません。第1曲などはバーンスタインよりも遅く、沈滞の極みとなっています。ウイーン・フィルの音もさすがにワルター時代の濃厚な味わいは薄れましたが、他の団体の音と比べればマーラーの音楽への適性は群を抜いています。バルツァの感情豊かな歌も曲に向いていて、子を失った母親の哀しみを痛切に感じさせて感動的です。
トーマス・ハンプソン(Br)、レナード・バーンスタイン指揮ウイーン・フィル(1990年録音/グラモフォン盤) バーンスタインとウイーン・フィルとの組み合わせがやはり魅力的です。ウイーン・フィルの持つ美しい音はもちろんのこと、各フレーズの歌わせ方、彫の深さはやはりバーンスタインが最高です。ハンプソンもFディースカウのような演出臭さを感じさせないばかりか、美しい声と落ち着いた歌唱で心に深く訴えかけてきます。
アンネ・ソフィー・フォン・オッタ―(Ms)、ピエール・ブーレーズ指揮ウイーン・フィル(2003年録音/グラモフォン盤) ブーレーズのマーラーはバーンスタインやテンシュテットのような巨人タイプでは有りません。ウイーン・フィルの持つ音の美感を生かしながら、さらりと水が流れるような透明感のある音楽を引き出しています。オッタ―の若々しく澄んだ声もそれにピッタリであり、心に静かにしみこんでくるような哀しさを感じさせます。但し痛切な感情表現を求める場合には少々物足りなく感じるかもしれません。
名演奏が多過ぎて絞り込むのも躊躇われますが、マイ・フェイヴァリット盤を選ぶとすればやはりフェリアー/ワルター盤です。次点はバルツァ/マゼール盤とします。男性歌手のものとしてはハンプソン/バーンスタイン盤です。